全部返還施設の現況

復帰当時、87施設、28,660.8ヘクタールあった米軍施設は、令和4年3月31日現在では、33施設、18,666.2ヘクタールとなっている。

​返還された米軍施設の施設数においては半数以上の返還が見られるが、返還面積は10,221.8ヘクタールと35.7パーセントに止まっている。 ​返還には全部返還、一部返還があり、全部返還面積が55施設、3,238.0ヘクタール、一部返還面積が24施設、6,983.8ヘクタールとなっている。 ​

返還された土地は、主に土地区画整理事業や土地改良事業等の公共事業や民間による開発が行われており、都市地区の住宅地や商業地の確保、必要な公共事業の整備、農地または工業用地としての利用等により地域振興に大きな役割を果たしている。

​ 一方、地籍の明確化や細切れ返還、跡地利用計画の策定など、跡地によって様々な課題を抱える中、地域の新しい町として発展した場所や、未だ跡地利用が進まない返還地がある。

全部返還
FAC6007 慶佐次通信所(586千㎡、東村字慶佐次)

平成27年2月27日、全部返還。1962年(昭和37年)10月より、米軍(沿岸警備隊)においてロラン送信所として使用開始され、その後1993年(平成5年)に海上保安庁が運用を引継ぎ、2015年(平成27年)に運用停止となった。 ​返還跡地の利活用については、「慶佐次ロラン跡地利用推進委員会」にて検討中である。
FAC6102 安波訓練場(4,893千㎡、国頭村字安波)

​ 平成10年12月22日、全部返還。同施設は、安波川から安波ダムに係る地域を米軍が地位協定に基づく一時使用施設として使用していたものであり、それが全面解除となったものである。
​平成13年度に調査設計を行い、ダム湖面の利活用、自然体験、滞在型の拠点整備事業を実施し、平成19年2月に国頭村環境教育センター(学びの森)を開設した。
FAC6112 久志訓練場59千㎡、名護市字久志)

​ 昭和49年3月31日、全部返還。海兵隊が、地位協定に基づく一時使用施設として使用していた。
​返還跡地は農業用地として利用されている。
FAC6013 恩納通信所(631千㎡、恩納村字恩納)

​ 平成7年11月30日、全部返還。通信所及び事務所として使用されていた。
返還跡地は万座毛の南側に位置しており、平成10年に民間によるゴルフ場を主とする跡地利用計画の提案があったが、一部地主の同意が得られず、平成11年に計画は断念された。
​その後、平成14年2月に沖縄亜熱帯計測技術センター施設の整備が完了し、平成20年5月に恩納村ふれあい体験学習センターが建設された。
​また、平成21年3月に恩納通信所返還跡地利用地主会と外資系企業が跡地開発の基本合意書に調印し、平成25年度には、現在「恩納通信所跡地リゾート計画」に関する環境影響評価の手続きが完了している。
​現在、「恩納通信所跡地リゾート計画」に向けて道路や排水路等インフラ整備を実施中である。
FAC6014  キャンプ・ハーディ(267千㎡、宜野座村字松田)

​ 昭和50年3月31日、全部返還。昭和27年に米軍に接収される前はほとんどが山林原野であり、一部谷間や傾斜面にわずかに田畑が点在していた。
​同施設は、米陸軍アジア地域援助第一特殊部隊(グリーンベレー)の多目的訓練場として、原子砲の実射訓練、各種の火器類及び実弾演習等に使用されていた。 ​
返還跡地には国際交流村が建設されたが、施設の老朽化により解体され、現在そのほとんどが原野となっている。
FAC6215  恩納サイト(268千㎡、恩納村字恩納・字谷茶・字冨着、金武町字屋嘉)

​ 昭和50年6月30日、全部返還。米陸軍第30防空砲兵旅団が恩納ポイント陸軍補助施設として使用していた同施設は、復帰に伴い恩納サイトに名称が変更された。
​航空自衛隊那覇基地恩納高射教育訓練場へ引き継がれている。
FAC6116  屋嘉訓練場(2,001千㎡、金武町字屋嘉)

​ 昭和49年3月31日、全部返還。海兵隊が、地位協定に基づく一時使用施設として使用していた。
​返還跡地は農地開発事業が実施され、農用地として利用されている。
FAC6017  ギンバル訓練場(602千㎡、金武町字金武)

​ 平成23年7月31日、全部返還。同施設は、泥土除去施設や消火訓練施設等があり、野外演習、通信演習、ヘリコプターの離発着訓練などが行われていた。
​返還後の跡地利用については、米軍基地所在市町村活性化特
FAC6018  屋嘉レスト・センター(82千㎡、金武町字屋嘉)

昭和54年8月31日、全部返還。 ​同施設は、米陸軍人事厚生業務局の管理の下に保養施設として利用されていた。
​返還跡地は、金武町において復帰先地公共施設整備事業が実施され、住宅地として利用されている。
FAC6021  瀬名波通信施設(4,620千㎡、読谷村字瀬名波・字宇座・字渡慶次・儀間)

平成18年9月30日、マイクロ・ウェーブ塔のある一部区域を除き全部返還(一部区域(マイクロ・ウェーブ塔部分)は、同年10月2日、トリイ通信施設に統合された)。
​「ボロー・ポイント射撃場」、「嘉手納第一サイト」、「ボロー・ポイント陸軍補助施設」及び「読谷第一陸軍補助施設」として使用されていた同施設は、復帰に伴い統合され「ボロー・ポイント射撃場」として提供が開始された。
​昭和52年10月、瀬名波通信施設に名称変更。 ​提供が開始されて以降10回以上の部分返還の後、全部返還された。
この施設は西太平洋諸国の放送を傍受していたが、アンテナ地区は大部分が黙認耕作地であった。 ​返還跡地には残波岬公園が整備され、高級ホテルやゴルフ場などリゾート地として発展している。 ​
平成18年返還部分については、平成21年度に跡地利用基本構想を策定し、現在は農村整備事業の導入に向けた調査等を実施中である。
FAC6023  知花サイト(151千㎡、沖縄市倉敷、読谷村字親志、恩納村字山田)

平成8年12月31日、全部返還。「知花陸軍補助施設」と「喜名無線中継所」として使用された同施設は、復帰に伴い知花サイトに名称が変更された。
​ミサイル・サイトとして使用されていた。昭和48年4月23日に、大半の施設が陸上自衛隊那覇駐屯地白川高射教育訓練場へ引き継がれた。
​陸上自衛隊の一角で、マイクロ・ウエーブ局として空軍の第18通信隊が使用していたが、平成8年12月に残りの1千平方メートルが返還され、全部返還となった。
​しかしながら、この1千平方メートル部分については、土地の有効利用ができないとの所有者の要望もあり、平成12年4月1日から陸上自衛隊那覇駐屯地白川高射教育訓練場として提供されている。
FAC6024  石川陸軍補助施設(206千㎡、うるま市石川東恩納・字昆布・字栄野比)

昭和49年8月3日、全部返還。宿舎及び事務所として使用されていた。
返還跡地は一部が宅地やゴルフ場に利用されているが、傾斜や高低差がある地形のため、現在でも多くの山林が残っている。
FAC6025  読谷陸軍補助施設(122千㎡、読谷村字長浜)

昭和49年10月31日、全部返還。 ​宿舎及び事務所として使用されていた。
返還跡地は88千平方メートルが宅地として利用されており、残りが原野となっている。
FAC6026  楚辺通信所(535千㎡、読谷村字波平、字座喜味、字上地)

平成18年12月31日、全部返還。同施設は、通称「象の檻」といわれる巨大な檻のようなケージ型アンテナを有し、通信所として使用されていた。
​返還跡地はほとんどが民有地であり、読谷村が地主会と連携して、復帰先地公共施設整備事業の採択に向けた取組を行っている。
​平成28年度には、前島地区における公共施設整備が完了。 ​その他の地区については、平成22年度に、楚辺通信所跡地地区整備ガイドプランを策定し、地区計画導入に向けた取組を行っている。
FAC6027  読谷補助飛行場(2,930千㎡、読谷村字座喜味、字喜名、字伊良皆、字大木、字楚辺、字波平)

平成18年12月31日、全部返還。
同施設では、復帰前からパラシュート降下訓練が行われていたが、平成8年12月、SACO最終報告で、パラシュート降下訓練が伊江島補助飛行場に移転され、楚辺通信所が移設された後に全部返還されることが合意された。 ​
楚辺通信所移設工事の遅れのため返還が遅れていたが、平成18年7月31日、大部分が返還され、同年12月末に残りの部分が返還された。 ​
返還跡地は、大部分が等価交換により国有地から村有地となった。 ​
平成17年に読谷村が策定した跡地利用実施計画に基づき跡地利用が進められ、先進農業支援センター等が整備されているほか、読谷村において、村道中央残波線整備事業や農村整備事業等が実施中である。
FAC6030  天願通信所(974千㎡、うるま市字安慶名・字天願・字赤野・字田場)

昭和58年6月30日、全部返還。
​昭和48年9月15日に大幅な返還が行われている。
昭和48年頃までは、同施設は通信基地としてベトナム、フィリピン、グアムなどの極東地域や米国との長距離通信を行うほか、トリイ通信施設との連携の下に使用されていた。 ​
返還跡地は天願地区土地区画整理事業が実施され、市役所をはじめとする公共施設や学校、住宅地、郊外型店舗などが建設され、「みどり町」としてうるま市内に新しい町が形成されている。
FAC6033  キャンプ・ヘーグ(638千㎡、うるま市字赤道、沖縄市知花・字登川)

昭和52年5月14日、一部区域を除き全部返還(一部区域は、同年12月15日、陸軍貯油施設及びキャンプ瑞慶覧に統合された)。
宿舎、事務所及び訓練場として使用されていた同施設は、国道329号沿いにあり、東側に具志川市(現うるま市)赤道、南側に沖縄市知花、北側に沖縄市登川と隣接し、周辺地域の振興開発の障害となっていた。 ​返還跡地は登川地区土地区画整理事業が実施され、住宅用地、福祉施設、企業用地として利用されている。
FAC6034  平良川通信所(177千㎡、うるま市字仲嶺・字田場・字上江洲・字喜屋武)

昭和49年4月30日、全部返還。 ​
昭和48年6月30日に一部が返還されている。 ​通信所として使用されていた。 ​
返還跡地には市民芸術劇場、高齢者創作館及び公民館などが建設され、主に住宅用地として利用されている。
FAC6035  波平陸軍補助施設(41千㎡、読谷村字波平・字都屋) ​

昭和49年10月31日、全部返還。 ​宿舎及び事務所として使用されていた。 ​返還跡地には県立都屋の里、県立読谷救護園、村立診療所、村立農村婦人の家及び村立生き活き健康センター等が整備されている。
FAC6038  嘉手納住宅地区(103千㎡、読谷村字大湾・字古堅・字比謝矼)

昭和52年11月30日、全部返還。 ​
読谷村古堅地域と隣接していたこの施設は、空軍の家族住宅として使用され、広い芝生と基地のまわりに金網がないことから、通称「モーガン・マナー地域」として住民に親しまれていた。 ​
返還跡地は古堅地区土地区画整理事業が実施され、宅地として利用されている。
FAC6039  砂辺倉庫(3千㎡、北谷町字砂辺)

平成5年6月30日、全部返還。
空軍が民間会社の倉庫2棟を家具修理施設として使用していた。
​返還後は企業が利用している。
FAC6040  砂辺陸軍補助施設(24千㎡、北谷町字砂辺・字浜川)

昭和52年4月30日、一部区域を除き全部返還(一部区域は、同年12月15日、陸軍貯油施設に統合された)。
返還部分は、嘉手納航空隊の調達事務所及び倉庫として使用されていた。 ​
返還跡地は住宅地となっている。
FAC6041  カシジ陸軍補助施設(7千㎡、北谷町字砂辺)

昭和51年9月30日、全部返還。
同施設は陸軍の予防医学研究所及び研究所に勤務する職員の住宅等に使用されていた。 ​
返還跡地は現在、地籍未確定であることから利用されていない。
FAC6042  コザ通信所(5千㎡、沖縄市胡屋)

昭和48年3月31日、全部返還。通信所として使用されていた。
​返還跡地は住宅地となっている。
FAC6045  瑞慶覧通信所(123千㎡、北谷町字吉原、沖縄市字山里)

昭和51年3月31日、全部返還。
復帰前は陸軍戦略通信コマンドの通信基地及び太平洋野戦事務所として使用されていた。
​返還跡地は桃原地区土地区画整理事業が実施され、現在は宅地となっている。
FAC6047  西原陸軍補助施設(198千㎡、うるま市与那城西原・与那城安勢理・勝連内間・勝連南風原)

昭和49年4月30日、全部返還。
​昭和48年6月30日に一部が返還されている。 ​
米陸軍第30防空砲兵旅団が使用していた。
​返還跡地は病院等も建設されているが、主に農業用地として利用されている。
FAC6049  泡瀬倉庫地区(131千㎡、北中城村字渡口・字仲順)

昭和48年6月30日、全部返還。覆土 覆土式の弾薬庫や倉庫等があった。
返還跡地には村立中央公民館、 商 工研修施設及び社会福祉センターなどの公共施設が整備されている。
FAC6050  久場崎学校地区 (127千m2、 中城村字久場) 

昭和56年3月31日、 全部返還。
この地域は、中城村の北側に位置し、 米軍の接収後は、難民収容所、 米軍のモータープール及び兵舎等に使用されていたが、その後は米人子弟の学校施設として使用された。
返還跡地は久場地区土地区画整理事業が実施され、 主に住宅・商業用地として利用されている。
 FAC6052  キャンプ・マーシー (369千m2、 宜野湾市真志喜字宇地泊) 

昭和51年3月31日、 全部返還。
この地域は、宜野湾市真志喜の国道58号から海岸線に至る場所に位置 し、獣医センターや小学校及び米軍基地内のPXを総括するOREの本部が置かれていたが、これらの 施設は、キャンプ桑江に移転している。
返還跡地は真志喜地区土地区画整理事業が実施され、 沖縄コン ベンションセンターなどのコンベンションエリアと連動して、住宅地などの街づくりが図られている。
FAC6053  キャンプ・ブーン (151千m2、 宜野湾市字宇地泊) 

昭和49年12月10日、 全部返還。
陸軍の民間人事部、 ガードの司令部、 USA憲兵司令部等の施設とし て使用されていた。
返還跡地は宇地泊地区土地区画整理事業が実施され、 宅地や公園などが整備されて 
いる。
FAC6054  牧港倉庫 (2千m2、 浦添市字牧港) 

昭和49年12月10日、 全部返還。
倉庫として使用されていた。
返還跡地は民間会社が娯楽施設として利 用している。 
FAC6055  牧港サービス事務所 (建物のみ、 浦添市字牧港) 

昭和48年6月30日、 全部返還。
事務所として使用されていた。
なお、同施設は建物のみの施設である。
同施設は撤去されている。
FAC6057  牧港補給地区補助施設 (1千m2、 浦添市字牧港) 

平成5年3月31日、 全部返還。
返還前は、浦添市の住宅地域にある民間会社内の倉庫の一部が一時保 管庫として使用されていたもので、家具類、洗濯機及び冷蔵庫等引上げ、家族の使用した家庭用品が保 管されていた。
返還跡地は民間会社が倉庫として利用している。
 FAC6058  牧港調達事務所 (1千m2、 浦添市字城間) 

昭和49年3月31日、全部返還。
事務所として使用されていた。
返還跡地は民間会社が飲食店として利 用している。
FAC6059  浦添倉庫(6千m2、 浦添市字勢理客) 

昭和50年1月31日、 全部返還。
昭和48年6月30日に一部が返還されている。
倉庫として使用されてい た。
返還跡地は民間会社が倉庫として利用している。
FAC6060  工兵隊事務所 (53千m2、浦添市字西原) 

平成14年9月30日、 全部返還。
在日米陸軍工兵隊沖縄地区事務所や倉庫として使用されていた。
同事 務所は、キャンプ瑞慶覧に移転されている。
返還跡地は飲食店などの民間施設が整備されている。
FAC6061  牧港住宅地区(1,926千m2、 那覇市上之屋 天久 安謝 銘苅・安里・真 嘉比・古島) 

昭和62年5月31日、 全部返還。
復帰後全面返還まで、5回の部分返還が行われた。
国道58号線、国道 330号及び環状2号に囲まれたこの施設は、 那覇市の中心地の近くにあり、 奥武山公園の約8倍の面積 に将校、下士官の家族住宅 1,181戸 (昭和49年頃)、プール、スケート場、 PX 小学校等の教育及び 娯楽施設が完備されるなど快適な生活環境施設であった。
これらの住宅は、嘉手納飛行場、牧港補給地 区及びキャンプ・コートニーの代替住宅施設に統合された。 
返還跡地は、那覇市の新たな都市拠点づくりとして那覇新都心地区区画整理事業が実施された。
当該 地区には、那覇市新都心銘苅庁舎、沖縄振興開発金融公庫、 沖縄職業総合庁舎などの公共建築物、 大型 ショッピングセンター、映画館、 飲食店などの商業施設及びアパートやマンションなどの住宅施設が多 数建設され、新しい街の姿が形作られてきており、那覇市の新しい活気あふれる場所に変貌している。
FAC6062  那覇冷凍倉庫 (建物のみ、那覇市西町) 

平成5年3月31日、 全部返還。
那覇港湾施設に隣接する倉庫地帯にある建物のみの施設で、民間の冷 凍倉庫の一部を米軍が賃借し、エクスチェンジサービス沖縄地域営業本部の食料品倉庫として使用して いた。
平成2年の那覇市曙への移転後、 施設は返還され、現在は民間の倉庫として利用されている。
FAC6063  ハーバービュー・クラブ (17千m2、 那覇市泉崎 楚辺 壷川)

昭和47年8月14日、 全部返還。
米軍人、 軍属の会議室、食堂、 バー及びその他娯楽施設等として使用 されていた。
復帰後最初の返還地域である。返還跡地はホテルとして利用されている。
FAC6065  那覇サービス・センター (5千m2、那覇市奥武山町) 

平成7年8月31日、 全部返還。
この施設は奥武山公園の入口にあり、 「シーメンズ・クラブ」と称さ れ、軍人・軍属の福利厚生施設として利用されていた。
施設内にはレストラン、酒類、雑誌等を販売す る売店及びゲームコーナーなどがあった。
なお、「シーメンズ・クラブ」は、那覇港湾施設に移設され ている。 
返還跡地には県立武道館が建設され、奥武山公園と併せて県民のスポーツの場や憩いの場として利用 されている。
FAC6066  那覇空軍 海軍補助施設 (3,739千m2、 那覇市宮城・赤嶺 田原・金城・ 高良・具志・字当間字安次嶺 字鏡水、豊見城市字瀬長) 

昭和61年10月31日、 全部返還。
那覇空港の背後にあったこの施設は、 主に将校と下士官及び軍属用の 住宅地域として使用され、 施設内には、幼稚園、遊園地、 ゴルフ場、 PX及び銀行等が完備されていた。
復帰の際に一部返還され、自衛隊へ引き継がれている。
昭和57年3月31日には大幅な部分返還があり、 その返還跡地は小禄金城地区土地区画整理事業が実施され、 特色ある街づくりが行われており、郊外型 店舗の進出や那覇市のベッドタウンとして発展している。
 
また、同補助施設の弾薬貯蔵基地として使用されていた豊見城市の瀬長島は、昭和52年5月14日に返 還された。
返還跡地には市営球場などが整備され、返還跡地の一部においては、土地利用に関する規制 が厳しいこともあり、長い間未利用の状態が続いていたが、観光振興地域の指定を皮切りに、温泉宿泊 施設の立地や豊見城市による瀬長島観光拠点整備事業の推進がなされ、 現在、官民連携による新たな観 光拠点として賑わいをみせている。
FAC6267  那覇サイト (103千m2、 那覇市字安次嶺字当間字大嶺) 

昭和48年4月3日、 全部返還。
米陸軍第30防空砲兵旅団が那覇陸軍補助施設として使用していた同施 設は、復帰に伴い那覇サイトに名称が変更された。
航空自衛隊那覇基地や航空自衛隊那覇基地那覇高射 教育訓練場へ引き継がれている。
 FAC6268  知念第一サイト (115千m2、 南城市知念字知念) 

昭和48年4月6日、 全部返還。
ミサイル・サイトとして使用されていた。
陸上自衛隊知念分屯地へ引 き継がれている。
FAC6269  知念第二サイト (312千m2、南城市知念字吉富 知念字山里 知念字具志 堅佐敷字手登根 佐敷字伊原) 

昭和49年1月9日、 全部返還。
米陸軍第30防空砲兵旅団が知念第二陸軍補助施設として使用していた 同施設は、復帰に伴い知念第二サイトに名称が変更された。
航空自衛隊知念分屯地へ引き継がれている。
FAC6070  新里通信所(105千m2、南城市佐敷字新里・大里字大城) 

昭和49年3月31日、 全部返還。
返還までの間は、食糧補給基地や米国民政府が置かれるなど米軍の司 令部的使用がなされてきた。
返還跡地には社会福祉施設の老人ホーム、 障害者支援施設及び保養施設と して厚生年金休暇センターが建設されていたが、現在、厚生年金休暇センターは売却され、ホテルとし て運営されている。
FAC6071  知念補給地区(1,795千m2、南城市玉城字親慶原 玉城字垣花・玉城字仲 村渠・玉城字玉城・玉城字中山・玉城字富里・玉城字屋嘉部・玉城字喜良原) 

昭和49年10月15日、全部返還。
旧玉城村の面積の半分近くを占めていた同施設は、米海軍司令部とし て使用された後に陸軍の管理下に移され、兵舎、 倉庫及び米軍人軍属等の住宅に使用された。
また、 極 東戦略の特殊部隊の使用基地として、その機能や性格は秘密にされていたが、 ベトナム戦後の極東軍事 基地の見直しによって返還の対象とされた。 
返還跡地には公園、ゴルフ場、 福祉施設及び体育センター等が整備され、市民の地域活動の場や憩い の場として活用されている。
FAC6272  与座岳航空通信施設 (159千m2、 糸満市字与座・字大里、八重瀬町字世名 城・字高良字富盛) 

昭和51年6月30日、 全部返還。
航空警戒管制サイトとして使用されていた同施設は、昭和48年3月31 日に大部分が返還され、 昭和51年に全部返還された。
航空自衛隊那覇基地与座岳分屯基地へ引き継がれ ているほか、土地改良事業が実施され農業用地として、またゴルフ場としても利用されている。
FAC6273  与座岳サイト (122千m2、糸満市真栄平・新垣、八重瀬町字安里 字仲 座)

昭和48年4月16日、 全部返還。
米陸軍第30防空砲兵旅団が与座岳第一陸軍補助施設として使用してい た同施設は、復帰に伴い与座岳サイトに名称が変更された。
陸上自衛隊那覇駐屯地南与座高射教育訓練 場へ引き継がれている
FAC6074  与座岳陸軍補助施設 (217千m2、 糸満市字大度・摩文仁、八重瀬町字富盛 字仲座) 

昭和49年9月30日、 全部返還。
米陸軍第30防空砲兵旅団が与座岳第二陸軍補助施設として使用してい た同施設は、復帰に伴い与座岳陸軍補助施設に名称が変更された。
現在は、陸上自衛隊那覇駐屯地八重 瀬分屯地へ引き継がれているほか、一部は果樹園として利用されている。
FAC6075  南部弾薬庫 (1,287千m2、八重瀬町字玻名城・字安里 字与座・ 字仲座、 糸満市字摩文仁) 

昭和52年3月31日、 全部返還。
接収当初はナイキ基地として使用されていたが、 その後陸軍及び海軍 の通常弾薬庫が設置され、 返還されるまで海軍の専用弾薬庫として使用されていた。
返還跡地は土地改 良事業が実施され、 葉野菜等の近郊型農業として利用されているほか、ゴルフ場としても利用されてい る。 
FAC6279  久米島航空通信施設 (234千m2、 久米島町字宇江城・字仲村渠・字上江洲 ・字西銘・字大田・字嘉手苅) 

昭和48年5月14日、全部返還。
航空警戒管制サイトとして使用されていた。
航空自衛隊那覇基地久米 島分屯基地へ引き継がれている。
FAC6286  宮古島ボルタック施設 (164千m2、 宮古島市平良字下里)

昭和48年2月15日、全部返還。
航法援助施設として使用されていた。
航空通信施設が設置されている。 
FAC6287  宮古島航空通信施設 (101千m2、 宮古島市平良字下里・ 平良字西里・上野 字野原) 

昭和48年2月15日、全部返還。
航空警戒管制サイトとして使用されていた。
航空自衛隊那覇基地宮古 島分屯基地へ引き継がれているほか、上水道施設や畜産センターなどが建設されている。
FAC6089  那覇海軍航空施設 (836千m2、 那覇市宮城 具志 字大嶺 字当間字鏡 水) 

昭和50年6月27日、 全部返還。
飛行場として使用されていた。
現在は那覇空港として使用されている。
FAC6090  伊波城観光ホテル (60千m2、 うるま市石川伊波) 

昭和54年6月30日、 全部返還。
住宅及び厚生施設として使用されていた。
返還跡地は県営石川団地、 リゾートホテル及び民間の社員寮などとして利用されている。 
なお、一部返還された跡地についても新しい街づくりが行われている。 
泡瀬通信施設は、海邦国体の主会場となった県総合運動公園やし尿処理施設などの公共施設が建設さ れているほか、住宅地としても利用されている。 
キャンプ瑞慶覧のハンビー飛行場地区及びメイ/モスカラ射撃場地区の返還跡地には、 飲食店、 大手 スーパーなどが建設され、 多くの若者達に利用されている。 
キャンプ桑江北側地区等においては、旧沖縄振興特別措置法に基づき特定跡地として指定され、現在 は桑江伊平地区土地区画整理事業が実施されている。
平成23年9月、 平成25年3月と段階的に使用収益 が開始され、残りの地区についても、随時、 使用収益の開始が予定されている。

返還前後の様子